笠ひろふみ衆議院議員 RYU HIROFUMI official website
国会質疑
159-衆-憲法調査会基本的人権の…-2号 平成16年03月11日
○笠小委員 どうも参考人御苦労さまです。民主党の笠浩史でございます。
 ちょっと幾つか私も聞きたいことがあるわけでございますけれども、先ほどの思想、良心の自由において、今まさに、裁判員の制度をお触れになりましたけれども、これがこれから恐らく国会の方でもかなり大きな議論になっていくと思うんです。先ほど、思想、信条の自由による拒否ができるというところを一定の評価をされたわけでございますけれども、これは本当に大変な負担になると思うんですね。人それぞれ、知識も違いますし、また受けとめ方も違うと思いますし、あるいは死刑自体が、それが例えば信条になるのか、自分としては死刑そのものに廃止をすると言った人が極刑の裁判にかかわるというような。
 こうした中で、この思想、信条の自由によって拒否をするということを一定の評価をされたところをもう少し、ちょっと具体的にお聞かせをいただければと思います。

○野坂参考人 裁判員の問題でございますが、私もまだ、思想、信条の自由を理由として辞退ができるという考え方で、政令によって定めるところによりそういうふうに辞退が認められるということを伺ったばかりなものですから、具体的に深く突っ込んで考えているわけではありませんが、先ほど少し申しましたように、まだ思いつくままに述べた程度でございます。
 まさに内心の問題というのは、非常に千差万別であります。先生がおっしゃられたように、死刑になりそうな事件にはかかわりたくないというような場合に、死刑制度に反対であるというような信条もあるでしょうし、そこまで深く考えてはいないんだけれども、つまり、死刑制度に反対ではないけれども、自分が死刑という結論に手をかすのが嫌だというふうなところもあるでしょう。それから、もっと漠然と、何となくそういう大それたことにはかかわりたくないという程度のこともあるかもしれません。
 そういったものをどう仕分けするかということで、基本的に考えられることは、内心の問題は、やはりその人の生き方、人格形成といいますか、そういうものに深くかかわっているというものかどうかの見きわめで決まってくるだろうと思うんですね。ですから、先ほど挙げた例で、深い宗教的確信として自分は人を裁くというふうなことはできないということがはっきりすれば、それは尊重すべきだというのは、かなりはっきり言えると思うんです。それと同程度に、宗教的なというものではないんだけれども、自分の信念としてこういうことにはかかわりたくないということがはっきり示せれば、その人の信条なり良心の問題として、尊重すべきだということが言えると思います。
 ただ、そうしますと、辞退したいというときに、どなたかが面接するなり、あるいは何か文書にして自分の信条というものを出すのかというようなことになりまして、何か手だてを講じなければ、ただ単に自分の良心に反するから拒否しますということで済むとは、ちょっと思えないんですね。
 これは国民の義務だとすれば、それを免除するというなら、それなりのしっかりとした根拠が必要だというふうに考えますので、繰り返しになりますけれども、その人の内面にある、自分の生き方にかかわる核心的な部分から出た拒否理由なのだということが判断できるかどうかを最も大事な基準とすべきでしょう。ただ、それをどうやって調べるのですかというところがかなり困難ではないかなというふうに私は思いましたので、先ほどちょっと申し上げたという次第でございます。

○笠小委員 ありがとうございました。
 ちょっと時間がないので話題を変えさせていただくわけでございますけれども、この数年、靖国神社の問題というのが、非常に中国や韓国の反発もあって、内外ともに大変大きな問題になっているんですけれども、私は、若い世代の政治家として、これから二十一世紀、この靖国というもの、総理の参拝というものとどう向き合っていくのかということは、やはりひとつ整理をきちんとしないといけない。政教分離、これにのっとって憲法というものに照らしたときにどうなのかという。
 例えば、A級戦犯を分祀するとか、あるいは新たな追悼施設をつくるとかということも検討されたり、かなり出てくるわけですけれども、それはあくまでも対外的に、外国の反発があるということについての手段であって、やはりその前に、我々が日本人として、この国としてどう向き合っていくかという議論が必要なのではないかなと思っておるわけでございます。
 そこで、先ほど先生が、最高裁もまだ総理の公式参拝についての明確な判断は下していないということをおっしゃったんですけれども、かなり長いわけですね。多分、問題になったのは、中曽根総理の公式参拝のときからだと思うんですけれども、最高裁がなかなか判断を下し切れないというものの一番大きな問題というのは、先生としてはどのように考えておられますか。

○野坂参考人 今の点は、いわゆる公式参拝訴訟と言われている一連の訴訟がありまして、中曽根元総理の公式参拝をめぐって争われました。
 ただ、それが最高裁に行かなかった理由は、高裁の段階で、先ほど少し申しましたけれども、大阪と福岡の二カ所で高等裁判所の判決が出ましたけれども、その中で、違憲の疑い、すなわち、これを継続して行えばやはり違憲になりますよという趣旨の判断が示されたということなんですね。しかしながら、それは、総理の公式参拝によって国民個々人のいわゆる信教の自由が侵害されたわけではない。すなわち、訴えを起こした人たちはさまざまな、例えば宗教的人格権というようなものを主張いたしましたけれども、それらはまだ権利としては成熟していないのだと。判決の言葉によれば、一種の感情といいますかイデオロギー的なものを主張しているのであると。つまり、法的な保護に値しないという判断が出たものですから、そのために請求自体は退けられているわけですね。
 ただ、退けられているけれども、その退けた判決の中で、公式参拝については、それをこのような形で継続して繰り返せば違憲になるとか、あるいは違憲の疑いをぬぐい切れないのだという、いわゆる傍論という形で判断を示した。そこで、訴えを起こした側は、自分たちの請求は退けられましたけれども、裁判所がとにかく違憲の疑いということを曲がりなりにも示したということで上告していないわけですね。そのために高裁段階で確定した。したがって、最高裁の判断が出ていないということでございまして、最高裁が判断を回避しているということではございません。
 これは、少し外れますけれども、先ほどの棚橋先生の御質問と絡むことで、いわゆる制度的保障ということと、基本的人権、信教の自由との関係の問題ですね。つまり、信教の自由の侵害があれば、これは法的に救済できるということなんですけれども、そもそも権利侵害がないのだよというのがこの高裁の判断ということになるわけです。
 そういう意味で、実は、国の政教分離原則違反というものを訴訟で争うということは非常に難しいという別個の問題がございます。そのことの一つの反映として、今、最高裁の判断が出ていないということだというふうに私は認識しております。

○笠小委員 ありがとうございました。