笠ひろふみ衆議院議員 RYU HIROFUMI official website
国会質疑
159-衆-憲法調査会基本的人権の…-3号 平成16年04月01日
○笠小委員 松本先生、きょうはどうもありがとうございます。民主党の笠浩史でございます。
 今も質問ありましたけれども、昨日、やはりこの週刊文春の事前差しとめで、高裁の判決が一転して地裁の判決を否定したということで、非常に久しぶりに表現の自由にかかわる問題が大変クローズアップされていると思うんですが、先ほど先生のお話で、表現の自由というものは非常に傷つきやすい自由だと。私も、議員になる前、放送局におったもので、大変そのお言葉を聞いて心強くしているところなんです。
 ただ、一方で、この手の裁判が、昔は多分、国家と例えば表現の自由の闘い、そういったことは非常にわかりやすかったし、むしろ、やはり国民的にも、国家権力がマスメディアに対して表現の自由を侵害してはいけないという論理があったわけです。しかし、今一番難しくなっているのは、週刊誌あるいはインターネット、そうしたところで、ともすると、個人のプライバシーの問題とこの表現の自由の対立というものが、いろんな角度で、いろんなところで今争われてきている中で、今回の裁判でも、例えば公共性、公益性、そして被害の重大さと回復の困難さ、この三点をめぐって判断がなされているわけです。これで本当に十分なのか、視点が。その点についてどのようにお考えか、お聞かせいただければと思います。

○松本参考人 表現の自由と国家権力の関係ということ、これは相変わらず重要な議論でありますが、今おっしゃられましたように、個人の人権をめぐる状況というのは、私人対私人の間でもやはり問題となるだろうと思います。その場合、国家がどういう位置にあるかということを考える必要があるかと思っています。私は、私人対私人の関係についても、国家を含めた三者関係で考えるべきだというふうに考えております。
 その場合、国家は、一方において、表現の自由によって被害を受けた私人を保護すべき立場にあるだろうというふうに考えています。これは、最近憲法学においても有力になりつつある議論でありますが、基本権保護義務という考え方がございまして、国家が私人間における被害を防止する義務というのを負うという考え方であります。つまり、ある私人の表現によって別の私人が損害をこうむる場合、この別の私人の損害を国家が防止して、その個人の人権を保護しないといけないという考え方です。ここで、憲法上、基本権保護義務というのが国家に課せられる。
 しかし、他方で、国家がその保護義務を履行しようとすれば、表現を行った私人の表現の自由に介入せざるを得ないわけでありまして、ここに個人対国家の表現の自由の問題というのは残らざるを得ない。それで、表現の自由をその表現した私人が持っている以上、ここには、その私人から国家に対して表現の自由の主張というのが常になされるわけでありまして、これを国家の側から見ると、私人の表現の自由を侵害してはならない義務、人権侵害防止義務というものが課せられることになる。
 つまり、国家には、基本権保護義務と基本権侵害防止義務の二つの義務が同時に課される、そしてこの二つの義務の間で調整を行わないといけないということになる、こういうふうに考えていくべきだろうと考えております。

○笠小委員 今回の週刊文春のこの問題において、先ほど北方ジャーナルの事件の点が先生の方からも御披露あったわけでございますけれども、北方ジャーナルに関しては、やはり名誉毀損、名誉権というものをめぐる争いであったように私は理解をしているんです。
 ちょっとあえてこだわりたいんですが、やっぱりプライバシー権というものが憲法の十三条によるという解釈は確かにできると思いますけれども、今、さらに一歩進めて明文化しておかなければ、この判断というものが非常に難しくなっていくんではないかという危惧を私は持っているわけでございます。その点についてはいかがでしょうか。

○松本参考人 プライバシー権を明文化するというのは、憲法上明文化するという意味と、それから法律でもってプライバシー権というのを保護するという意味と、恐らく二つあるのではないかと思いますが、これは、明文化することによってその中身がより明確になるということであれば、明文化する意味があると思います。
 しかし、ただ単にプライバシーという言葉を法律に書き込む、あるいは憲法に書き込むというだけであれば、その明文化による実益というものはそれほどないのではないかというふうに考えます。これは立法技術の問題もございますので、プライバシーの保護そのものは、これは重要でありますし、否定されるべきではありませんので、明文化することによってよりプライバシーと表現の自由との調整がうまくいくということであれば、これはそうされるべきであると思いますが、ただ単にプライバシーという言葉を盛り込むというだけであれば、実益はないであろうというふうに考えております。

○笠小委員 先ほど先生の御説明で、議会の役割、公共の福祉の制限について、まず議会がその役割を一義的に担うべきだというようなお話があったわけです。
 私、その考え方はいいとは思うんですけれども、ただ、私自身は、今の憲法のもとで議会にそれを担わせたとしても、やはり公共の福祉の制限にかかわる、例えば先ほど申し上げましたプライバシーの権利であるとか、あるいは知る権利であるとか、そこらあたりについて、一つ踏み込んだ具体的な条項というものを憲法の中に盛り込んだ上で議会にその役割を担わせなければ、なかなかこれは判断ができないのではないか。あるいは、恣意的に、この国会の場で本当にそういうことが、そのときどきの都合で判断をされることになる危険性がないのか。そうした疑問を非常に持っているわけでございますけれども、それについてちょっとお伺いできればと。

○松本参考人 憲法上、例えば制限理由を盛り込むというような場合については、そういう方法がないわけではない、あるいはそういう方法も有効な場合もあるかもしれないとは思うわけですが、ただ、憲法上の決定というのは、これは非常に長期的な考慮を要することでありますし、また国民的な賛同を要することだろうと思います。したがって、だれがどう考えてもそのような制限が必要であるというような場合に限ってなされるべきことではないかというふうに思います。
 とりわけ人権につきましては、その制限というのは、これはやはり原則として許されないことでありますので、その許されないことを憲法において実現するという以上は、国民的な賛同が得られるような事柄でないとならないのではないかと思います。そうだとすると、それほど多くの事柄を憲法に期待することはできないのではないかというふうに考えております。

○笠小委員 いや、私も、それはおっしゃるとおりなんですけれども、ただ、制限することを加えるということではなくて、今の人権というものが、グローバルスタンダードにおいて、果たして今のままで十分なのかなと、その基本法の憲法の中における位置づけというものが。その部分をむしろきちんと検討して、もちろん十分な時間もかけなければいけないけれども、一つ踏み込んだ形でやはり盛り込まなければ、何が、例えば議会で議論をするにしても、制限が逆にできるのか、してはいけないのか、その部分というものが、やはり明確な基準化という意味でも必要になってくるのではないかと思っているわけでございますけれども。

○松本参考人 人権というものを憲法上どのくらい列挙するかという点については、これは国によってさまざまでありますけれども、日本国憲法の人権のカタログというのは私は割と豊富な方であるというふうに考えておりまして、例えばアメリカ合衆国の憲法なんかに比べますと非常に人権の数も多いですし、基準として、特にグローバルスタンダードに照らしてみても劣るところはないというふうに考えております。
 しかし、そのことを踏まえた上でさらに人権条項を充実させていくということ、それ自体は私も否定するつもりはございませんが、現在の日本国憲法の人権条項がグローバルスタンダードから見て特に劣っているというふうには考えておりません。

○笠小委員 どうもありがとうございました。